「うむ、甘い甘い」
永久を抱きしめ始めてから少し経った頃、後ろからレイたんの声が聞こえて来た。
どうやら起こしてしまったらしい。
……それにしても、手に握っている、仄かに湯気が立ち上る黒い液体が入ったマグカップは何処から出て来たのだろう?
「ん? どうした、続けないのか?」
「……興が削がれました」
幾ら私でも、しげしげと観察されながら永久を抱きしめるのは、些か恥ずかしい。
「そうか。そろそろ朝食を作るから、お兄さん達はしばらくしたら居間に来てくれ」
そう言うとレイたんは、マグカップを持って部屋を出ていった。
「気を使ってくれたのでしょうか?」
永久が首を傾げる。
「どうでしょう? むしろ、朝食を作るために起きたのが本題で、ついでに私達をからかっていっただけの気がしますけど」
レイたんの性格を考えると、その方がしっくり来る。
「まあ、レイたんの料理は美味しいですし、楽しみに待ちましょう」
「はい、御主人様!」
いつの間にか、空はすっかり白みを帯びていた。
「……戒兎兄上、大丈夫か?」
朝食は、レイたんのそんな言葉で始まった。
「は、はは……、大丈夫大丈夫……」
戒兎はそう返すが、どう見ても目が虚ろだ。
私とレイたんは、そんな彼を直視できずに目を逸らす。
「あの、そんなに悩むくらいなら、また向こうの世界に行っては如何ですか?」
虚ろに笑う戒兎に声をかけたのは、意外にも永久だった。
「へっ! そんな事が出来るの?」
底なし沼に垂らされた縄に飛びつくかの如き必死さで問いただす戒兎。
永久は一瞬私に目配せして、否の言葉が無い事を確認すると、戒兎の方へ向き直って頷いた。
「はい、御主人様や私が他の世界に行った後では難しいかもしれませんけど、今ならむしろ簡単ですよ?」
確かに、一昨日、馬車ではねてしまった男を私が連れて行った様に、私や永久がナビゲートすれば、座標を記録しているあの世界との行き来は比較的容易だ。
こちらに居場所がないのならいっそ、またあちらの世界に行って定住するのも悪くはないだろう。
「……ごめん、少し考えさせてくれないかな。あれだけ大見得を切って帰って来たのに、また直ぐに戻るとなると、矢っ張り恥ずかしいからさ」
……確かに恥ずかしそうだ。
「まあ、しばらくはこちらにいますから、その気になったら声を掛けて下さい」
「はは……有り難う」
戒兎は酷く透明な笑みを浮かべると、朝食には手を付けず居間を出て行った。
「ぬう……」
レイたんが寂しそうな顔で唸る。
自分が作った朝食を、戒兎が一口も食べずに出て行ってしまったのが残念だろうか。
その日の朝食は、何処か居心地の悪いものになった。
「ところで、お兄さん達は何処を見て回るのか決めているのか?」
朝食から少し経って、気まずい空気も行くばかは薄れた頃、レイたんがそんな問いを口にした。
「いえ、今日か明日辺りに何処か良さそうな所を調べようかと思っていましたが、もしかして案内して貰えるのですか?」
「うむ、向こうでは楽しませて貰ったからな。今度は私が案内してやろう!」
小さな体で胸を張る姿は、とても微笑ましいが……嫌な予感を感じるのは何故だろう?
「むう、どうしてこうも信用が無いのだ……」
態度に出ていたのか、はたまた地の文を読んだのか、落ち込むレイたん。
この子はこの子で、色々と思うところがあるのかも知れない。
「これと、これと……これもだな。うむ、こう言う時に大人が居ると便利だ!」
「…………」
満面の笑みで、片手で持つにはやや大きい程の箱を、私の手の上に積み重ねていくレイたん。
その箱の多くには、独特のタッチで少女の絵が描かれており……明らかに扇状的な姿をした少女が描かれた物も少なくは無い。
――あの後、レイたんに連れられて秋葉原と言う街を訪れた私達は、何故かレイたんの買い物に付き合わされていた。
しかし……最初の方に見ていた何かの機械の部品も、女の子らしいかと問われると首を傾げるしかない物だったが、先程見ていた同人誌なる薄い本と、今見ているエロゲなる代物は明らかに成人男性を対象とした物なのでは無かろうか?
「……付き合わせてしまって悪かったな。友人とここに来るのは初めてで、つい羽目を外してしまったのだ……」
申し訳なさそうに語るレイたん。
案の定と言うか、レイたんの趣味は年頃の女の子として一般的とは言い難いらしい。
「いえ、これはこれで楽しかったので構いません。……あの時、あっさりと身体を許した理由の一端が分かった気もしますし」
必ずしも、それだけが原因でも無いのかも知れないが、レイたんに聞かされたエロゲのシナリオを鑑みると、性的な事柄への抵抗が薄い原因の一部ではあるのだろう。
「むっ! ――まあ良い、折角だから昼食は奢ろう」
レイたんは一瞬恥ずかしそうに頬を染めたが、あっさりと立ち直ると、丁度目の前にあった喫茶店の扉を押した。
「お帰りなさいませ、御主人様、御嬢様!」
……念のために言っておくと、今の台詞は永久では無い。
「ん? 本物のメイドを侍らせている、お兄さんをメイド喫茶に連れて来たら、どうなるものかと思ったが、案外面白味の無い反応だな」
どうやら、店員がメイドに扮して接客する趣向の喫茶店らしい。
レイたんは私の反応を楽しみにしていた様だが、どうしろと言うのだろう?
「へえ、永久ちゃんは御主人様の奴隷メイドさんなんだー」
「はい! でも、御主人様は、とても良くして下さるから、偶に自分が奴隷で有る事を忘れそうになってしまうのです……」
取り敢えず、レイたんが選んだだけ有ってか、食事や飲み物は十分に美味しかった。
「……確か、この世界では奴隷の文化は一般に忌避されていたと思うのですが……もしかして、ただ単に奴隷への虐待や、過度の重労働が問題視されているだけだったりしますか?」
奴隷を連れている人間には重要な事だけあって、その世界で奴隷がどのように認識されているかは、魔王協会の支部などで問い合わせれば、比較的簡単に知る事が出来る。
その情報によれば、この世界――と言うよりもこの国では現在、階級としての奴隷がそもそも公には存在しないため、特別に奴隷制度への批判は行われていないものの、実際に人間を奴隷として扱っている事が知られれば、それなりの非難を覚悟する必要が有るはずだ。
「いや、ただ単にプレイの一環だと思われているだけだろう。ここのお姉さん達は、変な子供には私で慣れている筈だからな」
「……成る程」
確かに、永久に対しては特に酷い扱いをしている訳でもないから、そう言う事があっても不思議では無い。
……と言うか、自分が変な子供だと言う事は自覚していたのですね。